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布土の磨き砂について
 そもそも、磨き砂というのは現在でいうクレンザーのようなもので、鍋などにこびりついた汚れなどを取るのに重宝したものである。
 その磨き砂が、美浜町の東海岸寄りに位置する布土地区では、明治初年から掘り出されていた。昭和33年の鉱山閉鎖に至るまで、地場産業として隆盛を極めた白い磨き砂は、採掘の山から浜辺の加工場までの道路にこぼれ、さながら白布を敷いたように続いたので、白布の土すなわち布土という地名が生まれたと言われる。現在でも崖に露出した磨き砂の層が見られるが、採掘抗の跡も残っており、当時の様子がしのばれる。
 昭和6年1月21日に、一向山の採掘場で突然の陥没が起こり、13名が生き埋めとなる痛ましい事故が起こった。現在は、その一向山を文化的史跡として保存しようとする努力が続けられている。
 さてその磨き砂であるが、成分的には火山噴火の際に溶岩が急激に冷やされてできる火山灰の一種(火山ガラス)である。多量のガスを含んで溶岩が、細かく粉々になっているため、非常に角張った細かい砂粒となっている。そのため、ものを磨くのに適したザラザラした手触りとなっている。
 ではこの火山灰は、いつ積もった(いつ火山の噴火が起こった)のかというと、数100万年前ということぐらいしかわからない。しかし、その昔に知多半島全域に厚く火山灰を降らせた、巨大な火山の大爆発があったことは、紛れもない事実である。

奥田地区の製塩について
 律令制度において「調」は、その土地で得られるものを納めるよう定められていた。したがって、海に面したこの美浜の地で、調が塩であったことには何の疑問も無い。平城京跡から出土した大量の木簡にも、この地から塩が納められていた証拠が残っている。
 さてその塩であるが、全世界的に見てみれば、岩塩や堆積した塩の層から得ている地域がほとんどであるのに対し、そのような塩の層が無い日本では、昔から海水から手間ひまかけて塩をとりだしてきた。
 なめてみるとからく感じる海水だが、その中に含まれる食塩は極めて薄いものである。この海水を直接煮たりして水を蒸発させようとしても大変な事で、時間もエネルギーも莫大にかかるのである。したがって、古くから藻塩焼き(ホンダワラやアマモなどの海藻・海草に海水をかけて、塩を付着させて濃縮する方法。)や、塩田によって海水中の塩分濃度を上げ、濃くなった海水を土器や釜に移して、水を加熱蒸発させて塩を得てきた。
 奥田地方では藻塩焼きと土器を用いた製塩が盛んであったようで、奥田製塩遺跡からはワイングラス大の製塩土器が大量に発掘されている。

河和海軍航空隊について
 以前から国道247号線を河和から師崎方面に向かって車を走らせていると、矢梨に至るまでに左手に橋脚のようなもの見えるのをいぶかしんでいた。「あれはいったい何だろう?こんなところに鉄道があったわけでもないし…。」
 その疑問は、この前『美浜学3 海軍河和航空隊、むかし・いま』に参加して解けた。戦争遺構だったのだ。
 現在は、広大な耕作地が広がり、牛や豚などの畜産が盛んな美浜の古布、矢梨、浦戸の地域だが、ここはかつて海軍が航空隊を置いた土地である。
 太平洋戦争直前の昭和16年に、海軍はその軍備増強のためにこの地を買い上げて、水上機基地建設を計画した。 (この買い上げにより、この土地の住民は、窮屈で困難な強制移住を余儀なくされた。)
 道路の付け替えなども含んだ大規模な工事の後、昭和18年12月には、水上機整備員の教育を目的とした河和海軍航空隊(後の第一河和海軍航空隊)が設立された。また翌昭和19年4月には、水上機操縦教育を目的とした第二河和海軍航空隊が開設され、航空艇の搭乗員の養成が行われるようになった。
 この地における航空隊の活動は終戦まで続き、終戦間際には特攻訓練まで行われていたそうである。
 終戦後、内陸部の第一河和海軍航空隊地区は土地が払い下げられ、多くは農耕地になっていった。現在の河和南部地区公民館がある場所に司令部があったそうだが、その周囲の耕地には当時の防空壕や施設の基礎などの遺構が残っている。
 また、第二河和海軍航空隊地区は、現在では住宅地や都築紡績の河和工場になっているが、その工場前の河和漁港の右隣に、防波堤の下から、水上機を水上まで運ぶためのすべり(スリップ)と呼ばれる傾斜面が残っている。このようなすべりは、現存するものではこの場所と名古屋の庄内川河口、茨城県土浦市の3箇所が知られているが、ここのものが規模的には一番大きいのではないかということである。
 開発の手から免れて自然が残っているこの美浜という地域は、このように戦争遺構という負の遺産も多く残っているのだなぁと実感した次第である。

防空壕の跡 畑の中の基礎跡 河和港のすべり